烏山頭ダムと嘉南大圳

台湾南西部に広がり、総面積約4550平方キロにおよぶ嘉南平原は、かつて洪水・干ばつ・塩害に喘いだ不毛の原野でした。そこに、1920年から10年の歳月をかけて烏山頭ダムと大灌漑用水路(嘉南大圳)が建設されると、荒れ地はわずか3年で肥沃な土地に生まれ変わり、台湾一の大穀倉地帯に変貌したのです。

この一大灌漑工事の設計・築造を指揮したのが台湾総督府の土木技師、八田與一(1886-1942)でした。

大灌漑用水路には、烏山頭ダムと濁水渓から直接引水した2カ所の水源があります。

そのうち烏山頭ダムは、曽文渓の支流である官田渓を堰き止めて烏山頭に大貯水池を築造し、さらに海抜468メートルの烏山嶺に全長3107メートルのトンネルを掘って、曽文渓の上流から導水して官田渓流域に集まる雨水と共に、貯水して給水灌漑する施設としたものです。烏山頭ダムを空から眺めると、美しいサンゴに見えることから、「珊瑚潭」とも呼ばれています。

八田技師はダムの工法として、当時でも稀なセミ・ハイドロリックフィル方式を採用しています。コンクリートの土台を中心部にだけ使い、大量の土砂をその上に盛って、水の力を利用して粘土や細やかな土砂を下に落ち着かせ、土の堰堤を築くのです。地震の多い台湾では当時最善の方法でした。

堰堤の長さは1,273m、底部幅303m、高さ56m、頂部幅9m、総貯水量1億5,000万トンの雄大な施設で、緑陰との調和がみごとです。また給排水路は総延長16,000kmと地球をおよそ半周する長さに及び、嘉南平原を網目状に覆ったのでした。

八田技師は、当時まだ日本でもほとんど使われていなかったスチームショベルやエアダンプカーなど大型土木機械を47種類、ヨーロッパやアメリカから輸入。また工事で働く人だけでなく、その家族も一緒に住むことができる68棟234戸の宿舎を建てました。「よい仕事は安心して働ける環境から生まれる」という考えから、宿舎のまわりに学校や病院、テニスコート、プールなど福利厚生施設のほか、山の中の生活を潤す娯楽にも力を注ぎました。

しかし15万ヘクタールの広大な嘉南平原には、二つの水源をもってしても水稲作に必要な給水ができません。そこで八田技師は、限られた水を有効に供給するため、さらに農作物の連作による耕地の地力低下を防ぎ塩害を防止する三年輪作給水法(15万ヘクタール全区域を水路系統により、150ヘクタールの一給水区画に分割し、さらにこの区画を50ヘクタールの三つの小区画に分け、一年目は一つ目の小区画で水稲作を、二つ目の小区画ではサトウキビ栽培を、三つ目の小区画では雑作物を栽培する。翌年はこの作物を循環させて三年で一巡させる)を考案しました。つまり、毎年水稲地域及びサトウキビ栽培地域へ、生育に必要な時期に合せて必要な水量を供給するのです。

嘉南大圳は10年の歳月を経て1930年に完成し、地元の人々は感謝を表すために與一の銅像を建てました。その姿はダムの湖畔に座って考え事をしていた與一のいつもの姿でした。

台湾には「飲水思源」という諺があります。水を飲むとき、その源に思いを致せ、という意味で「井戸の水を飲む際には、井戸を掘った人の苦労を思え」という意味で使われます。台湾の農民の「飲水思源」の思いは今なお変わりません。彼の命日である5月8日には、その偉大な功績を偲ぶ農民たちばかりでなく日台の関係者らが、欠かさず墓前追悼式を挙行しています。

こうした嘉南大圳と烏山頭ダムを、台灣文化部は、世界遺産登録基準(ⅰ)項の【人間の傑作】「人間の創造的才能を表す傑作」、ならびに(ⅳ)項の【建築・科学技術】「人類の歴史上の重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた事例」というふたつの基準項目に適合するとしています。

 

 

当会主催「楽習会」「視察」等における、上記候補地に関わるレポート