台湾北部の桃園国際空港を利用すると、機内から広大な桃園台地に数々の”ため池”が見えてくる。
この大地を流れる河川は、古くからその水量は多けれども、流域面積が狭く、また川の両端が盆地になっており、灌漑用水の確保には向きませんでした。例えば大渓の町は今でも中華風の町並みが残る賑やかな町で、付近を流れる大漢渓によって、古くから海上貿易は盛んでしたが、川の両端は高台の盆地になっており、生活用水や農業用水には適さない環境でした。
このため、この地域では、18世紀頃から、雨水を貯めるためのため池(陂塘)を数多く造り、灌漑用水として利用してきました。最も多かった時期は10,000近い陂塘があったそうです。いつしかこの大地は大小様々で至る所に分布する、夜空にちりばめられた星のような陂塘の数々が織り成す景観を造り上げていったのです。
一方、雨水だけでは、天候に左右され、農業用水としては足りず、時には稲作から茶畑への転作を試みる農家も出てきました。
20世紀に入り、日本統治時代には大漢渓上流の石門から水を引き、132カ所の堰と231カ所の貯水用陂塘、そして846.5キロメートルの用水路を備えた総面積2218ヘクタール、総貯水量6600万立方メートルという「桃園大圳」の開削工事が始まります。これは、雨水だけに頼らず、川の水も利用し、安定的な水量を確保するための一大プロジェクトでした。
プロジェクトは臨時台湾総督府工事部によって進められ、その技術や工事機械はその後の台湾の近代化の発展に寄与していくことになります。
一方、水路を導入するためのトンネルの掘削等の作業現場では、過酷な労働環境であったことも資料として残されています。多くの人手が必要であったことから、茶畑で茶摘みをする女性もこの作業で活躍していたそうです。こうして多くの協力によって、工事は1928年に終了し、桃園農田水利会の管轄地域における最大規模の灌漑システムとなりました。
桃園台地の陂塘は、形状や立地環境がそれぞれ異なるため、生息する鳥類や水生植物、湿生植物、陸上植物の種類も非常に多様です。例えば「桃園石龍尾」と呼ばれる可愛らしい花は現在はこの地域のみに生息しているそうで、この名前をとって、この地域は「桃園」と呼ばれるようになったそうです。
桃園農田水利会管轄の灌漑面積は、1970年に最大化したものの、都市化と工業発展にともない農地面積は年々減少していきます。今では生態系の破壊も危惧されています。今桃園地域では、その大地とともに歩んできた人々の苦労と営みを大切にし、自然環境の保護に向けて次の100年を見据えて活動しています。
近年の人口増加や商工業の発展にともない、かんがい機能を失った陂塘の一部は埋立地となり、学校や住宅地、地方政府庁舎、空港が次々と建設されたものの、現在もなお約3000カ所の陂塘が残されており、桃園台地における水利かんがい目的の特殊な土地利用法を示すものです。これら数千もの広く分布する人造湖は地域住民の生活と密接な関係があり、世界遺産登録基準第5項を満たしています。引用:桃園台地の陂塘-Potential World Heritage Sites in Taiwan