金門島戦地文化

台湾の金門島は古代より『浯』洲と呼ばれ、史料には4世紀に現れ、宋代に具体的な像が見え始めます。しかし今日の金門を訪ねて手でふれることのできる歴史の層は、明清代から近現代のものです。

鄭成功勢力に対抗する清朝の遷界令(1664-)は、金門沿海部に住居解体と住民退去を強いました。また阿片戦争(1840)をきっかけに南洋英仏植民地とのあいだに開かれた海路は、金門に莫大な資本とともに異形の文化を運んできました。そして日中戦争(1937-1945)に端を発する島の軍事拠点化は日本軍の占領軍政から、国民軍の対岸前線基地化へと受け継がれてしまいます。

こうした激烈な歴史が、かえって住居集落をはじめとする金門の歴史資産を皮肉なほどよく保存したとされます。

まず家々が集まるカタチ。金門では住居が驚くほど規則正しく、すき間をあけずに凝集して集落をなし、まるで美しい結晶のよう。「宗族」と呼ばれる家族社会の結合論理が表れています。

つぎに材料とその組立。石・磚と杉による見事な構築です。一度バラバラになった石や磚を積み直したことを示すパッチワークのような壁面は、17世紀の遷界令の壮絶さを物語りつつ、素朴な美しさを湛えます。

最後に信仰。台湾の村や街の中心には、ほとんど例外なく媽祖などの神々を祀る廟が立ちますが、金門では神々よりも先祖が主役なのです。金門の理解を通して、私たちは本土を含めた台湾全体への理解をも深めることができます。

ー会員誌「恵風」より抜粋

4世紀初頭に中原の名家が移住してきたのを皮切りに、その後続々と唐、宋、元、明、清の人々が、1949年には国民政府軍がこの地にやってきました。金門の文化や経済、政治の歴史と1500年来の移民の動きは密接に結び付いています。移民は伝統的なビン南式建築群や難攻不落と称される特殊で勇壮な軍事遺跡、宗教信仰、冠婚葬祭や年中行事の風習など、多様な文化遺産を残しました。これらの文化遺産は「歴史回廊」を構成し、祖先たちの暮らしのあり様を感じさせてくれます。これは世界遺産登録基準第2項と第4項を満たしています。

金門ならではの戦地文化は「負の世界遺産」(対立、戦争、悲劇)から、「正の世界遺産」(和解、平和、喜劇)へと向かう望ましい教育と啓発の働きがあります。人類が平和共存を追い求めるという普遍的価値を表しており、世界遺産登録基準第3項を満たしています。

金門の伝統集落と住居配置の根本精神は宗法(祖先を同じくする血縁集団の規則)の倫理を体現しています。宗法、倫理は抽象的な支配の力で、具体的には「空間」の建設により強化されるとされ、このような空間に対する考え方により金門の伝統集落の形態が出来上がりました。古くの金門人が生計のために海を渡り、外来文化の影響を受けて故郷の金門に建てた「洋館」建築も内部の設計は宗法、倫理の制約を受けており、「伝統が第一、外来文化は二の次」という中洋折衷の建築に対する考え方が表現されています。これらの伝統集落は、現在では抗いがたい現代化の流れを受け、存続が危ぶまれています。これは世界遺産登録基準第5項に合致します。

引用元:金門戦地文化-Potential World Heritage Sites in Taiwan (boch.gov.tw)

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