淡水(旧名:滬尾コビ)には、背後にはダートン山がそびえる山城の特徴をもつ「紅毛城」があります。紅毛城はスペイン人によって造られ、その後オランダ人・イギリス人によって増改築され現在の様相に至ります。また山の中腹に向かって西洋建築の教会、学校、日本統治時代の寮があり、戦後1945年以降は淡水駅から淡江大学まで商業区として栄えました。
こうして淡水の建築群にはオランダ、スペイン、漢民族、日本・・・時代とともに植民地として文化の流れが記憶されていき、台湾が定める法律(≒日本でいう文化財保護法)では、国定史跡として「紅毛城」「理学堂大書院」などの4か所が指定されました。
淡水の史跡を語る上で欠かせないのは、「馬偕(George・L・Mackey)」氏の存在です。19世紀後半、カナダ長老教会ミッションとして台湾に渡り、宣教師として、医師として、建築士として、そして教師として多才に活躍し、「理学堂大書院」など多くの建築が淡水に残っています。
ー当会主催「楽習会」より抜粋
候補地の写真
淡水は元々平埔族(平地に住む先住民族)に分類されるケタガラン族が生活していました。その後、漢民族による開墾や、開港と通商に伴って西洋文化が台湾に入ってくると、西洋の宗教、建築、医療、教育などが淡水を拠点として台湾各地へと広がっていきました。特に建築と人の活動は深い影響を受けました。淡水の歴史エリアでは、特殊な建築様式を見ることができます。川沿いには商業や輸送に関する施設があり、行政や防衛に関する施設は高台に、そして教育や宗教に関する施設は後方の山頂部分に設置されました。こうして生まれた特殊な集落スタイルは、世界遺産登録基準第2項に合致しています。
淡水は、ヨーロッパの宣教師、医師、教育者、外交官、商人らと強い関連性があります。それを実質的に証明するのが淡水地域に生まれたコロニアル様式の建築物です。それには学校、城塞、領事館、ヨーロッパの商人、そして地元の商人たちによって作られた都市形態を含みます。この集落と貿易港の戦略的地位は、それぞれの統治権力が世界に影響する決定を下すとともに、この地域の思考、信仰、伝統にも影響を与えてきたことを見守っています。特にヨーロッパ人と現地住民の活動空間にあった顕著な隔たりによって作り出されたこの町の風格は、かつてこの町に住んでいた人々の生活スタイルと規範を伝える有形記憶でもあり、世界遺産登録基準第6項に合致しています。
引用元:https://twh.boch.gov.tw/taiwan/intro.aspx?id=8&lang=ja_jp