未分類

4 posts

【報告】8/8-10実施 ミニスタディツアー 佐渡島(佐渡島の金山)に行ってきました!

2026年8月8日から3日間、世界遺産「佐渡島の金山」の視察と、佐渡における台湾との関わりを求めて、理事や会員約10名で佐渡島に訪問しました。視察のポイントは、

①国内27か所の世界遺産のうち、日本の世界遺産条約締結直後は国の一本釣り、その後は自治体からの推薦で決まっていきましたが、ここ佐渡島の金山は民間の研究者や地元議員からなる保存団体の推進によって始まりました。台湾の候補地で活躍する民間団体の助けとなればと、佐渡の保存団体による勉強会を行いました。

②佐渡の出身で台湾で活躍された山本悌二郎(台湾製糖の創始者のひとり)氏を巡って、佐渡に残る山本氏の銅像や別荘を訪問しました。

③山本悌二郎の銅像をきっかけに佐渡と高雄の親交に大きく寄与した、若林素子氏が主催するイベントに参加し、このイベントのために来島した高雄をはじめとする行政・学校関係者と懇親し、当会の活動を広報しました。

《主な行程》

8月8日(土)佐渡両津港集合→佐渡金銀山ガイダンス施設「きらりうむ佐渡」→金山坑道見学→北沢浮遊選鉱場跡

8月9日(日)たらい舟体験→山本悌二郎別邸見学→宿根木の町並散策→“「佐渡島の金山」を未来につなぐ会”との意見交換→日台交流イベントの鑑賞→懇親会

8月10日(月)学校を改築した酒蔵見学→山本悌二郎銅像にて若林氏からの解説→大膳神社見学→トキの森公園見学

佐渡島の金山 ミニスタディツアー  若林氏による台湾関係者との懇親会 2026年8月9日

<世界遺産「佐渡島の金山」関連>

”佐渡金銀山ガイダンス施設「きらりうむ佐渡」”

一行はまず、相川地域に向かい、世界遺産としての金山の価値を理解すべく、当該センターを訪問。主に映像を中心に理解を深めながら、要所要所で佐渡市の世界遺産係の職員 市川氏より説明を受けました。

映像はまず、江戸時代、佐渡は天領として幕府により(現在でいう行政主導で)金山が開発されることで、世界を支えた金(銀・銅)の鉱山として発展した歴史の説明があった。次に間歩の成り立ちや鉱山町の発展、そして金の産出から小判づくりの過程、最後に明治以降の近代的な開発について解説がありました。

市川氏の説明によると、世界遺産としての金山の価値は、平安時代~昭和の閉山に至るまでの長い歴史の中で、主に江戸時代に焦点を当て、世界中の鉱山が近代的な機械によって開発されていた中で、手掘りや大流しという水を用いた手作業で大量生産、高品質の金を得たことが普遍的価値であるとのことでした。

”史跡佐渡金山”

その後一行は、その説明の証拠を見るため、車で10分ほど山に向かい、実際に世界遺産の構成資産の中心である坑道に向かいました。

坑道では、今回3日間佐渡で随行した、佐渡市に出向中の飯島アドバイザーから解説を受けながら歩きました。真夏にも関わらず坑道内は10℃近い涼しい気温が保たれており、江戸時代の坑道、道遊の割戸、そして明治以降の機械工場や開発された坑道を通り、約1時間を過ごしました。

飯島氏によると、坑道は明治に国から民間事業者(三菱合資会社)に払下げとなった後も開発が続き、鉱山としての閉山後、現在は三菱マテリアルのグループ会社である「(株)ゴールデン佐渡」が所有となって世界遺産登録前から観光開発をしているとのことです。界遺産としては、出向中の佐渡市だけでなく新潟県、そして文化庁や外務省等の国と連携して、ユネスコと協議・報告しながら価値の周知や活用を進めているとのことでした。

”北沢浮遊選鉱場跡”

金山の麓には、明治時代以降に開発された鉱石の精錬所等の施設が、荒廃して緑が広がった、美しい廃墟のように佇む工場跡地がありました。参加者の中にはここが目的の一つとして佐渡に来たという方もいるほど、佐渡のシンボルにもなっているようです。

飯島氏によると、現在は佐渡市の観光部局で夜のライトアップを行っていることもあり、年々観光客が増えているとのことです。また、隣の相川技能伝承館にて、鉱山の土を使って造られる伝統工芸である「無名異焼」による陶芸や、古布を再利用した「裂き織り」は鉱山労働者の保護着として使っていたとする話もありました。

“「佐渡島の金山」を未来につなぐ会”

小木地域の公民館を借りて、佐渡の金山を世界遺産登録に繋げた発起人の一人である、中野洸氏(元新潟県議会議員、現 佐渡島の金山を未来につなぐ会の会長)らと面会し、勉強会を実施しました。

中野会長は、1996年に石見銀山が暫定リスト入りすることを受け、同じく佐渡出身で石見銀山の調査をされていた鉱山史学者の田中圭一先生に相談を持ち掛けたそうです。

1997年に「世界文化遺産を考える会」設立、中野会長は県議会議員であったことから佐渡の市町の首長を説得に尽力。2004年に現在の一市である佐渡市に合併後も尽力され、新潟県に世界遺産室を設置する機運に繋がり、県議連が発足し、中野会長は議連の会長に就任しました。

その後市や国も議連を作り、民間から政治に働きかけを進めていき、見事世界遺産登録に繋がったようです。

佐渡島の金山 ミニスタディツアー 「佐渡島の金山」を未来につなぐ会 との意見交換 2026年8月8日

<山本悌二郎関係>

”山本悌二郎 別邸”

佐渡の南西の小木地域には、矢島・経島という、1300万年前に海底火山活動による、大量の溶岩や火山からの噴出物が堆積した小島があり、ジオパークのジオサイトでもあり、たらい舟の観光スポットがあります。

そして経島には明治初期に佐渡出身で農林大臣まで出世した山本氏の別荘があります。

山本氏はドイツで学んだあとは1900年に台湾に台湾製糖(のちの三井製糖)の設立に参画し、1902年に同社の最初の工場(橋仔頭工場:現在は博物館)が高雄で操業、1925年には同社社長も務めます。この頃日本は砂糖消費量の98%を輸入に頼っていたとされ、民政長官であった後藤新平は、台湾政策の中心の一つに糖業奨励を推進することにした背景があり、台湾に近代式の製糖会社を設立することを目指し、国の補助金を受けて三井物産が台湾製糖を設立したのです。

ところで今回の視察では会員の鳥居氏が参加していましたが、彼の祖父、鳥居信平氏は山本氏と大きな関わりを持っていました。

鳥居信平氏は静岡出身で、東京帝国大学農科大学を卒業後、農商務省などを経て、1914年に農業土木の専門家として台湾製糖へ入社します。最初に実施したのは、社有地の農場を対象とした灌漑排水事業で、その収量増大に貢献しました。

この業績もあってか、1918年に山本悌二郎がジャワを訪問した際に、その随伴員として鳥居信平氏が同行することになり、ジャワの水利施設、農業施設をくまなく見学することが出来たとされ、これが両者の関係性が示される初めての記録となります。

その後、鳥居信平氏は1923年、屏東県に二峯圳(地下ダム)を整備し、山本氏も訪問した記録が残されています。なお、この地下ダムは、山本社長の雅号「二峯」から「二峯圳(にほうしゅう)」と命名されたのですが、この二峰とは、読んで字のごとく2つの峯、つまり山本氏の故郷である佐渡を示したと言われています。

そして台湾製糖は1920年には高雄にあった本社が屏東に移転し、東京支社が麹町に置かれて発展し、そして台湾の土壌も開墾されていきました。これらの成功は山本悌二郎と鳥居信平、二人の活躍があってこそのものです。

今回、そんな一連の話を、別邸の管理人とともに、鳥居信平の孫を交えて話ができたことは、とても運命的なものを感じざるを得ませんでした

佐渡島の金山 ミニスタディツアー 山本悌二郎の別邸にて 2026年8月9日

”山本悌二郎 銅像”

真野地域にある真野御陵には、山本氏の記念碑が置かれていました。この記念碑はかつてあった銅像のレプリカなのだそうです。今回、この銅像を巡って、日本と台湾の交流に大きな貢献をなされた若林素子氏から話を伺うことができました。

2009年、台湾の著名な彫刻家である”黄土水”の作品を研究されていた方が、佐渡に山本氏の銅像があることを突き止め、それも含めて黄土水氏に関する学術論文を発表しました。その論文を台湾の高校教師の目に留まり、2017年の春、高校生をつれて佐渡に来ることになり、若林氏に連絡をとりました。

若林氏はその時に初めて、黄土水氏のこと、そして山本氏の銅像が佐渡にあることを知り、驚きを隠せませんでした。なぜなら、彼女の父が雲林県虎尾の製糖工場で勤務していた関係で、若林氏自身が幼少の頃過ごしたサトウキビ畑と高雄市の橋頭製糖工場にあったはずの銅像を子供ながらに記憶しており、同じものだったからです。

なぜ高雄にあった銅像が佐渡に?

山本氏の話に戻りますが、1925年に社長に就任したあとは、1927年に農林大臣に任命されたことで台湾製糖を去ることになります。この時、東京で活躍されていた黄土水氏が山本氏の銅像を製作され、1927年制作の銅像として高雄の橋仔頭工場の正面玄関に設置されます。

この銅像は台湾が蒋介石政権となった1960年に日本に返還され、その後「山本悌二郎先生顕彰会」の働きにより真野公園に移設されたそうです。

若林氏にとってのこの運命的な再会を機に、若林氏は、銅像が日本と台湾の交流の懸け橋になること、そして本来あるべき高雄に戻すべきだと考えました。そして台湾国立美術館と台湾文化省、駐日代表処をはじめ、日本側は佐渡市や学識者の力添えを得て、ついに2022年に、高雄市と佐渡市を動かして銅像は高雄へ帰還することとなりました。

なお現在の佐渡の真野公園には、銅像のレプリカが置かれています。

佐渡島の金山 ミニスタディツアー  山本悌二郎の銅像前にて若林と 2026年8月10日

若林氏が運営するスタジオPALは今年で創立40周年を迎え、この8月9日にこれを記念した日台交流ダンスイベントが開催されました。

開催場所は佐渡で最も大きいホールであるアミューズメント佐渡で、ダンスを披露したのは卒業生を含む生徒約140人、そして台湾からも多くのダンサーが来訪しました。もちろん観客も佐渡市民のみならず高雄市をはじめ台湾中の学校の先生や生徒たちが訪れ、若林氏が描いたとおり、銅像やダンスを通じて日本と台湾の交流の懸け橋となっていることを感じました。

佐渡市に勤務する飯島氏の話によると、8月7日には佐渡の両津で祭りが開かれていたが、このイベントに合わせて前乗りしていた高雄の学生たちも祭りに参加しており、町内放送でも大きく紹介されていたとのことでした。

飯島氏と若林氏との事前の話し合いを経て、今回ミニスタディツアーの参加者も8月9日のダンスイベントに参加し、夜は若林氏および台湾からの来訪者とともに当会の紹介や交流の機会に恵まれました

佐渡島の金山 ミニスタディツアー  スタジオパル日台湾交流イベント 2026年8月9日
懇親会では当会の紹介をさせていただきました。2026年8月9日

【報告】7/8-9実施 ミニスタディツアー 飛騨(白川村、御母衣ダム、高山市)に行ってきました!

2024年9月のスタディーツアーで訪れる「烏山頭ダム」と同様のロックフィルダムである御母衣ダムの見学と、白川郷の教育委員会との会合で世界遺産登録経緯、維持保全と観光への活用等の苦労話、そして高山市での学芸員からの町並み保存の歴史など貴重な意見を伺いました。

《主な行程》

7月8日(月)高山駅集合(昼食)→荘川桜公園→御母衣ダム・地下発電所→御母衣旅館(宿泊)

7月9日(日)御母衣旅館出発→白川村訪問・交流会→白川郷散策(昼食)→高山祭屋台会館→古い町並み散策→解散

《荘川桜公園》

 ダム湖に眠ってしまうはずであった樹齢400年以上と言われる老い桜2本を、初代電源開発総裁であった高碕達之介氏は「ダム湖の底に沈めたくない」という思いから、桜博士であった笹部新太郎氏や庭師の丹羽政光氏に要請。心を動かされた両名は移植が大変難しいと言われていた桜の移植を、工事関係者の間組とともに移動距離600m、高低差50m上に移植を行い、見事に桜が蘇っり、それは春には今でも見事な花を咲かせます。

 世界遺産条約誕生のきっかけとなった、アスワンハイダム(エジプト)の建造におけるアブシンベル神殿の移築にも通じる話であり、参加した一同は実物の桜の木を目の前に、深い感銘を受けました。

《御母衣ダム・地下発電所》

 「烏山頭ダム」と同様のロックフィルダムである電源開発㈱所有の「御母衣ダム」と「地下発電所」見学では、御母衣事業所内から地下発電所へ「インクライン」というケーブルカーで地下83mまで下り、普段見ることのできない地下発電所を見学できた貴重な経験でした。

《白川村観光振興課・教育委員会との交流会》

 白川村では、事前に調整により、役場の会議室にて、観光振興課と教育委員会の方々と意見交換の時間を設けました。当会アドバイザーの飯島より「台湾世界遺産登録応援会」の取組みの概要説明の後、白川村から白川郷が世界遺産になったこれまでの経緯、住民の方々が村を誇りに感じられていること、合掌造りの集落保存と観光活用に苦労されている点などを質問形式で伺い、一同大変勉強になりました。また今後、台湾を訪れた際に世界遺産登録に向けて活動されている台湾の団体へのアドバイスの参考にもなりました。

 その後、合掌造りに使用される「萱」の倉庫を特別見学し、萩町の合掌造り集落の案内とともに散策。火災から守る「放水銃」の実物も見せていただけました。地域の宝である合掌造りや自然環境を含めた景観を如何に保存していくか、その努力と観光における課題や対策も説明を受けました。

改めて、白川村役場観光振興課と教育委員会の皆様には、感謝申し上げたい。

《高山祭屋台会館・街並み散策》

 高山市では、これも事前に調整し、ユネスコ無形文化遺産である「高山祭の屋台行事」などを学ぶため、高山市観光課と高山市史編纂に長年尽力された田中学芸員の案内いただきました。

 「高山祭屋台会館」を皮切りに、古い町並みの解説を受けながら、中国の世界遺産で同じく歴史的町並みである「麗江の旧市街」と姉妹都市であること、町並み保存には祭屋台保存会や「屋台組」という組織が重要であること等を学びながら、ゆっくりと最終地点の高山陣屋まで歩きました。

 

【報告】8/4実施楽習会 「二峰圳の地下ダムと石板屋集落」

沢山のご参加ありがとうございました

 2019年8月4日、第6回楽習会は、鳥居徹先生(東京大学フューチャーセンター推進機構特任教授)により、鳥居信平氏が台湾で築かれた2つの地下ダム「二峰圳」と「力力渓」を主軸に、灌漑用水はどのように台湾製糖における役割を担ったのかを講演いただきました。

 下記に簡単にご報告いたします。

楽習会の様子

■屏東県に今なお残る鳥居信平の2つの地下ダム

屏東県来義郷には「林辺渓」という川があるが、古くから乾季には干上がってしまい、灌漑用水としての利用には適さない環境があった。鳥居信平は1920年にこの川の地下を流れる伏流水をせき止めることで、年中濁流になることのない真水を提供できることを考案して二峰圳という地下ダムを建設した。また3年後には春日郷の「力力渓」にも大きな地下ダム(力力渓水圳)を建築した。彼の設計したこれらの地下ダムによって下流に広がる農場は4,000haにもなり、これによって明治以降日本が発展に寄与した台湾製糖事業に大きく貢献することになる。かつての日本経済にとっても、台湾経済においても重要な役割を果たしたのだ。

■鳥居信平の功績

1920年の「二峰圳」地下ダム建造までには様々な経験を海外で積んでいたようだ。特に1918年からの2年間は、あの後藤新平の紹介などにより東南アジアを視察しており、中でもジャワ島における農林業は日本よりも進んだ技術もあったようで、どの時期に何を蒔くのが最も効果的かを図る技術は、台湾製糖にも活かされた。インドネシアの棚田と言えば「スバックシステム」という独自の水利システムと宗教・哲学的思想が結びついてできたバリ島の棚田の景観は、世界遺産に登録されている。

1923年には「力力渓水圳」の地下ダムも起工となるが、その3年後の1926年1月には竣工となり、その地下ダムによって供給される大呴(キョウ)営農場は,1700haの大きさで、現在でも多くが農地として使われている。

屏東の石板屋集落

■10月のスタディツアーで訪れてみよう

今回の2つのダムは地下を流れるので基本的に見ることはできないが、10月実施予定の屏東県スタディツアーでは力力渓水圳にて伏流水を集める進水塔等をみることができる予定だ。また春日郷と言えば台湾の世界遺産候補地の一つである、老七佳村の石板屋集落。パイワン族の集落で  、今回の楽習会でもどんな場所なのか、写真を見ることができた。ツアーでは実際に訪れる予定なので、ぜひ通常行くことができない屏東県のスポットに訪れてみてはいかがだろうか?

飯島記

【報告】12/1実施ミニスタディツアー 富岡製糸場と絹関連遺産群

世界遺産 「富岡製糸場と絹関連遺産群」 ミニスタディーツアーに行ってきました!

 2018121日、世界遺産の登録の経緯を先達から学ぶべく、 2014年に世界遺産登録された「富岡製糸場と絹関連遺産群」へのミニス タディーツアーを開催しました。

 「富岡製糸場」は明治維新後、開国によって西洋の近代国家の仲間入りが喫緊の課題であった当時の日本政府が、すでに輸出していた生糸を軸に貿易 拡大の為に、伝統的養蚕技術に代わる器械製糸技術を導入し、初の官営となる製糸場として誕生しました。 ここでの技術はその後日本各地に広がり、同じく大きく通風を重視した蚕の育成法を確立した「田島弥平の旧宅」、通風と温度管理を調和させた「高山長五郎の生家=高山社跡」1905年に建造された国内最大規模の天然の蚕の卵の保存施設「荒船風穴」を含めた計4か所が構成資産として2014 年に世界遺産に認定されたのです。

↑ 高山社跡

 

一般的な観光は、上州富岡駅からアクセスの良い「富岡製糸場」ですが、今回は世界遺産登録の経緯を学ぶべく、丸一日かけて車にて「田島弥平の旧宅」、「高山社跡」も見学しました。

特に田島弥平旧宅では専門ガイド、高山社跡では、その歴史的価値・世界遺産としての価値を伝える高山社顕彰会の方にもお時間を頂戴し、世界遺産登録までの経緯や、ICOMOSや国が求める真正性を裏付ける民間での調査など、様々なお話を頂戴しました。

 

 

世界遺産申請にはストーリーが重要。

 富岡製糸場と絹産業遺産群の世界遺産登録は、当初案は10件の資産が候補でしたが、その中に前記の田島弥平旧宅は含まれていなかったようです。もともと産業革命にかかわる工場・建築物を主体として申請を検討していたものの、「絹産業を世界に広めた文化交流」「絹産業の 技術発展」を示す為には、建築物だけではなく、それらを構成するストーリーが必要となり、急遽、蚕の育成法を広めた田島家に 白羽の矢が立ったそうです(ちなみに高山社は世界遺産登録のためのICOMOS調査の際、満点の評価を受けたとのこと)。

 最終的には、ICOMOSの調査により、 田島弥平の貢献や長五郎の影響が、日本だけでなく、アジア・ヨーロッパ・アメリカに影響 を及ぼしたという点が重視されての登録となりました。世界遺産の登録にはどのような登録基準を目指し、どのようにストーリー立てていくのかが重要だと感じたツアーでした。(飯島 記)